1940年代のアメリカ農業 2
「タマネギは私のところにあります。
私がアイダホでパウダーとフレークを作りましょう」。
・・・2人は封筒の裏に契約書を書きました。
『1940年10月1日以前に、ミスター・J・R・シンプロットはアイダホ渡し、ポンドあたり21セントでオニオン・パウダー30万ポンド、およびアイダホ渡し、ポンドあたり31セントでオニオン・フレーク20万ポンドの積送を開始することに同意する』。
ミスター・ソーコールはシンプロットの脱水装置に5万ドルを投資することにも同意しました。
2人はこの取引をまとめ、輸出業者のオフィスに戻りました。
こうしてミスター・J・R・シンプロットは、どのようにして乾燥オニオン・パウダーやフレークを製造するのかはっきりとした見通しも持たぬまま食品加工業を始めることになりました。
ここでもシンプロットは生涯の信条とした企業家の守るべき訓戒に従ったまでです。
いわく、『機いたれば、汝それをなさざるべからず』。
ところが、たてまえとしての彼のモットーはまるで別のもので、約25年間というもの彼のデスクの小さな金属製の飾り板にはこんなことがいかめしく記され、椅子を引寄せるたびに彼に語りかけているのでした・・・
『およそ考えうるかぎりの難点をまず克服せずして、何事も試むべからず』。
これに従えば、脱水機や粉砕機あるいはフレーキング・ミルも持たず、それらの機械を製造する手掛かりすらなしに、脱水・粉末化し、あるいはフレーク状に加工した50万ポンドのタマネギの荷渡し契約書にサインするなどまったく論外なはずです。
しかしJ.R.シンプロットはこれこそ好機とみて取り決めたのでした。